2015年
・3月頃
父が変な臭いがすると言い出した。他の家族は誰も臭いを感じず。自宅からの臭いではなさそうだ。ネットで調べるがはっきりと原因分からず。後日、内科にて診察。風邪の疑い。薬を処方されて帰宅。
・4/x(後日判明)
親戚が父と電話で話した時、呂律が回ってなかった模様。
・4/X(搬送当日。入院1日目)
朝、出勤途中に母から連絡。早朝、父、トイレで立ち上がれなくなり緊急搬送されたと。現在落ち着いており早退してまで来る必要は無いとの事だがICUにいるらしい。夜、母の元へ。父の診察結果は脳腫瘍グレード4の膠芽腫。脳に腫瘍ができ既に巨大化していたのだ。手術しなければ余命1ヶ月。手術しても余命1~2年。根治不可。手術予定日も決まっており、書面に書かれた開頭の文字に絶句。元々身体の他の部位に爆弾を抱えていた父で、死ぬ時もそこが原因になると本人も家族も思っていたのに脳とは…。父には病状は打ち明けていないらしく、医師からも打ち明けるか否かは家族判断になった。
・入院2日目
ICUにて父と会う。開口一番「俺死ぬよ」と。面会制限時間10分だったが大幅に超過。状況を察してくれたのか病院からは特に何も言われなかった。面会後、喫茶店へ。母は何度も「あの時ああすれば良かった」と言った類の発言を連発。母には過去の事を振り返ってもしょうがない。先月臭いを感じた段階で腫瘍は大きくなっていたであろうし、あの時点で発覚したとしても入院する病院が別の病院になっていたくらいだろう。これからの事を考えようと伝える。責めても仕方がない。誰が悪いとかではない。
・入院3日目
担当医師より改めて病状の説明を受ける。ICUにいたのは一般病棟の空きが無かった為と判明。一般病棟に空きが出来た為、移動。父、しゃっくりが止まらず。医師の説明では脳腫瘍の影響だと。父に病状をぼかしつつ脳を手術する事になると打ち明けるが断固拒否。家族の心配をよそに看護士とは馴れ馴れしく喋っている。
・入院4日目
父が隣人からしゃっくりがうるさいの苦情。かかりつけの病院へ転院したいと言い出す。搬送後初めて父のiPhoneを開くとカレンダーにスケジュールがびっしり。連絡が必要な相手へ直ちに連絡。搬送時の様子はあまり覚えていないようだ。
・入院5日目
母からメール。父が一人で立ち上がってトイレへ行こうとしてしりもちをついたため、ナースステーションの目が届きやすい部屋に変わったと。
・入院6日目
父とは別の部屋で担当主治医より膠芽腫について詳しく説明を受ける。このまま放置すれば対数式に急激に悪化し余命1ヶ月。しかし切り取れば余命を1~2年に延ばせる。ただし完全に切り取る事はできない。腫瘍ができたのが脳だから。脳を完全に切り取ってしまうと父が父でなくなってしまう。本人に痛みの自覚は無し。副作用として、術後片方の手が不自由になる可能性ある。1~2年かけて徐々に悪化していく。30年間、医学的に大きな進歩は無し。腫瘍には脳そのものがなるパターンと別のものがなるパターンの2種類あり。体の他の部位から転移した訳では無さそう。
説明終了後、父の元へ。脳腫瘍じゃないのか?と疑い始める。今すぐ調べてくれ。24時間そばにいてくれと言い出す。父へは脳腫瘍を否定し、頭の中にできものができて切除しないと危険と説明。 父は手術望まず。 イラつきは日に日に激しくなっているようだ。
・入院7日目
父へ告知すべきか連日家族会議をするが未だ結論は出ず。友人Aへ相談。Aは以前父親を癌で亡くしており、発覚から亡くなるまで家族はどう接していたかについて尋ねたのだ。友人Aからは「病状を父に正直に告知すべき。親戚を頼れ。母のケアをしっかり。母のイラつきはおそらくこれから何年も夫婦で過ごす老後が絶たれた事によるものだろう」と。友人Aと別れ病院に着くと実家から叔父が上京してかけつけ説得中だった。しかし家族親戚全員手術を受ける事を願っていても父は「俺は許可しない」「顔切られるのは嫌だ」と態度は変えず。父から少し離れた場所で母と二人になり、友人Aと話した事、父に告げた方が良い事を伝え、母も考えを改める方向に。父の元へ戻り色々やり取りをした後、最終的には、父が「腫瘍?」と尋ねてきた時に否定せずに頷いた。その瞬間、父も薄々気付いていた事が頭の中で繋がったのだろう。その後の父の言動が変わったのは一目瞭然だった。遺言的な事を話し始めた。今までの手術拒否発言は一切無くなった。叔父が帰る時、父は精一杯の大声で叫んでた。 夜になり、母に電話して父の状態確認。脳腫瘍だと分かった後は明らかに態度が変わり穏やかになった。新聞を読んだり、車椅子でトイレに行ったり、iPhoneで知り合いへゴルフのキャンセル電話を自らしていた。また、なんでなっちまったのかと。
もっと早く言うべきだった。友人Aには感謝してもしきれない。
・入院8日目
主治医に父へ病状を打ち明けた事を伝え、父も主治医より直接説明を受ける。父、あと2〜3年は生きたいと。それにしても手術受けさせるまでにこんなに苦労するとは…。
・入院9日目(手術当日)
朝、手術前に父と面会。手術前に父と握手して手術室へ。家族は待機。約4時間後、看護師より手術終了したとの報告。予定では8時間と聞いていたが早い。最悪の事態が頭をよぎり、祈りながらICUへ。主治医より説明を聞く。父との面会前に一旦外へ。
「すぐに葬式にしなくて良くなったんだ…」
こんな言葉こんな時しか出てこないだろう。遠くて近い将来、父とお別れする日はやってくる。それまで準備する時間ができたのだ。20分後。父と面会。目は開いており、呼びかけると反応する。「もっと生きられるんだよ」と父に話しかける。父は弱々しくも言葉も発していた。
・術後1日目
午後、ICUにて父と面会。昨日とは別の場所。父、まだ水しか飲めないなのにスポーツドリンクを要求。昨夜は眠れなかった模様。一旦別れかけたところで看護士からスポーツドリンク飲んでも良いとの許可が。幸い、自販機にスポーツドリンクがあったので届けた。父より「ありがとう」との言葉を確認し本日の面会終了。
・術後2日目
午後、ICUから一般病棟へ移ったとの報を受け、父愛読のスポーツ新聞を購入して病院へ。父はいきなり「俺殺される。」と言い出した。父の記憶はかなり混乱しているようだ。また、担当医と自分の声が似ているらしく、自分を見ない限り担当医と認識。息子に対してですます調で話したり。たまにまともな言動も。「俺が倒れるのは心臓とばかり思っていた。脳腫瘍については全く勉強していなかった。」 夕食は両手で食べた。左手の握力もある。この先、父の状態がどうなるかは分からない。この状態がこの先も続くのだろうか?
・術後3日目
見舞いに行けなかったので母に電話。食事はお箸で食べたとの事。昨日の様子が嘘のように、今日は驚異的な回復だったらしい。要経過観察。
・術後6日目
3日ぶりに父に会う。 重要の場所や、何を把握すべきか的確に指示が来る。また、今日は術後初めてトイレで用を足したり、リハビリも開始。最終的に歩行器使って自分で歩いた。入院前は立つことすらできなくなっていたのに。
・術後8日目
父、抜糸。ホッチキス40本のうち20本。残りは明日?リハビリルームから病室までは歩行器で歩いてきた。懸念されていた片手が不自由になる事は無かった。
・術後11日目
主治医より今後の方針について説明。腫瘍は悪性で膠芽腫と完全に断定。正式に余命を父に伝えられた。父は表面上は落ち着いて聞いていたが…。示された治療方法は3種類。治療方法を家族が選択のではなく、今後いつまでにどう生きたいかを示してそれに対して主治医が治療方法を選択する事に。翌日から約2週間、一時帰宅決定。
・術後12日目
父、一時帰宅。家の事に家族の事、さっそく積極的に動く。
一時帰宅中に頻繁に家族会議。家族から助言はしたが、父は結局結論を下すことはできなかった。
・一時帰宅終了日
父は結局どう生きたいか結論下せず。主治医の選んだ治療方法はガンマナイフ照射。正式に退院許可が出て、普通に暮らしてくださいとの事。かくして父の闘病生活は始まった。
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この後、ガンマナイフ照射に間隔空けて2回行った後、抗がん剤投与となったが割愛。
身体には術後の後遺症は見られず。手術直後の様子がいつまでも続いていたらどうしようかと思っていたのが懐かしく。記憶はほぼ正常。話し始めると止まらない癖も見られるようになったが。ただ、倒れてから手術するまでの記憶は抜けており、脳腫瘍だと知らせたのは自分だったが弟が伝えた事に記憶が書き換えられていた。だが、そんな事は些細なことだ。母の話では父は荒れる事が多くなり時に暴言も浴びせられたと聞く。その一方で、家族はいつかやってくるXデーへの準備も少しずつ始めていた。
精密検査は時々行っていたが幸いにも再発や転移は奇跡的に見られなかった。
お盆にはこれが最後と覚悟を決めて飛行機に乗り実家へ帰った。
秋口には金沢へ一泊旅行もした。
年の瀬には家族で忘年会もした。
再発無しの結果報告が続くにつれ、父は完治すると信じ始めた。その反面、死後家族がどうすれば良いかについて口が重くなっていった。そして2015年は終わった。
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2016年
・1月
新年早々、臭い再発。足の痛み。そして年が明けてから最初の精密検査で再発が確定した。
「俺、死期早まったよ」
・2月
ガンマナイフ再照射。無事終了。
・2月
精密検査。腫瘍はさらに大きくなっている。骨に張り付いていて手術不可能。主治医からはむしろ長く持った方だと。
・3月
日に日に衰えていく父。しかしまだ散歩程度の外出はできていた。近所に花見にも行った。
・4/x
朝、抗がん剤を飲むのが辛いと。 どうせ飲んでも長生きできない。と弱音を吐いたらしい。
・4/x
左手軽い麻痺が出始めた。歩き方もゆっくりになっていく。車椅子購入かレンタルか検討を始める。
・4/x(入院当日)
左手左足萎えて動けず。父自らの意志で入院を選択。
・入院翌日
昼食は自力で食べた。主治医より余命長くてもあと10~14日と宣告。父には告げず。
・入院3日目
食事に看護士の介助が必要になる。会話はもう無理だが反応はする。主治医より余命あと1週間と。
・入院4日目
食事は完全に不可になり栄養剤チューブになる。酸素マスクも装着。問いかけに反応はする。母の判断で菩提寺へ戒名依頼。
・入院5日目
菩提寺より戒名の連絡。立派な戒名で母涙ぐむ。母と葬儀屋へ出向いてxデーの打ち合わせ。
・入院6日目
意識はないが頻繁に動く。左目がわずかに開いて涙が出ていた。
・入院7日目
問いかけに反応は完全に無くなった。聞こえているのだろうか。
・入院11日目
問いかけに反応は無いが話しかけは継続。
・入院12日目
問いかけはするが反応はもう完全に無い。父の右の手のひらは冷たくなってきた。正直もう話しかける話題も無くなってきた。この時間は何なのだ。
・入院13日目
主治医より余命長くてもあと2~3日と告げられる。
・入院14日目
深夜、病院より呼吸が弱り始めたとの電話があり病院に急行。全身は白くなりあんなに赤かった耳は白い。そして当直医の立会の元、正式に父の死亡判定がなされた。今までよく頑張ってきたよ。お疲れ様でした。立派に送り出してあげるから。
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