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日記・コラム・つぶやき

2018年 まさかのプリキュア沼へ

前回の更新も1年ぶりの更新だったが、さらに2年も空いてしまった。せめて年1くらいは更新したかったものだが、去年は更新する気力すら無かったという事か。2015年から2017年にかけて私的に大きな出来事が続いたが、とりあえずは、ようやく収束した感じである。

さて2018年。

まずは私的には例年以上に「ゆかりんありがとう」である。

2月のTricolore♡Plaisirに始まり、LOST SONGイベント、HUGプリライブ、ゆかりっく Fesと楽しませてもらいました。そのTricolore♡Plaisirが開催された少し前、HUGっと!プリキュア第1話放送前日の2月3日に衝撃的発表があった。敵キャラクターにゆかりんがキャスティングされたとのニュース。プリキュアシリーズは初代を飛び飛びでMHの途中まで観ていた程度。しかもまともに観ていた訳では無いので実は内容は殆ど覚えてない。以降、10年以上縁が無かった。一応、最近は毎年新シリーズのキャストが発表される度に、ゆかりんの名前が無いか気にはしていたが。そこへ飛び込んできたこのニュース。

とツイート。

ゆかりん演じるルールー・アムールは13話以降出番が増えていく。そして、放送開始から4ヶ月半ほど経ち、ついにキュアアムールに変身。キュアアムールグッズも発売され始めたのでさっそく購入。

IMG_20180617_115154782

この時点では、プリキュア沼にハマる今の状況は全く予想だにしていなかった。ハマるにしてもあくまでHUGプリ限定だと思っていた。

IMG_0189

ルールー&キュアアムールグッズを購入するのはまだ分かる。

しかしである。


どうしてこうなった。

きっかけは冒頭でも触れたHUGっと!プリキュア LIVE2018 ライブ・フォー・ユー!!開催の直前にたまたま実施した録画HDD整理での衝撃的発見。

さらに、ライブ終演後当日のツイート。

そして、この直後からゴープリの本放送開始後3年あまり経過しての録画消化が始まった。

3年前、Go!プリンセスプリキュアをほぼ全話録画しておいたおかげで今こうして本放送のまま録画視聴できたのは本当にラッキーな事だったと思う。そして、他のプリキュアシリーズを観るにあたり、最初に観たのがGo!プリンセスプリキュアだったのも同様。2018年8月以降だけでHUGプリ以外のプリキュアシリーズを既に160本観た事になる。

まだまだ書きたい事はあるがそろそろ年を越しそうなので、この辺で。

とにかく、ゆかりんがプリキュア出演が実現して本当に良かった。ゆかりんをキュアアムール役に抜擢してくれてありがとうございました。

1年後どうなるかなんて分からないで締めたところで、よいお年を。

2015春-2016春

2015年
・3月頃
父が変な臭いがすると言い出した。他の家族は誰も臭いを感じず。自宅からの臭いではなさそうだ。ネットで調べるがはっきりと原因分からず。後日、内科にて診察。風邪の疑い。薬を処方されて帰宅。

・4/x(後日判明)
親戚が父と電話で話した時、呂律が回ってなかった模様。

・4/X(搬送当日。入院1日目)
朝、出勤途中に母から連絡。早朝、父、トイレで立ち上がれなくなり緊急搬送されたと。現在落ち着いており早退してまで来る必要は無いとの事だがICUにいるらしい。夜、母の元へ。父の診察結果は脳腫瘍グレード4の膠芽腫。脳に腫瘍ができ既に巨大化していたのだ。手術しなければ余命1ヶ月。手術しても余命1~2年。根治不可。手術予定日も決まっており、書面に書かれた開頭の文字に絶句。元々身体の他の部位に爆弾を抱えていた父で、死ぬ時もそこが原因になると本人も家族も思っていたのに脳とは…。父には病状は打ち明けていないらしく、医師からも打ち明けるか否かは家族判断になった。

・入院2日目
ICUにて父と会う。開口一番「俺死ぬよ」と。面会制限時間10分だったが大幅に超過。状況を察してくれたのか病院からは特に何も言われなかった。面会後、喫茶店へ。母は何度も「あの時ああすれば良かった」と言った類の発言を連発。母には過去の事を振り返ってもしょうがない。先月臭いを感じた段階で腫瘍は大きくなっていたであろうし、あの時点で発覚したとしても入院する病院が別の病院になっていたくらいだろう。これからの事を考えようと伝える。責めても仕方がない。誰が悪いとかではない。

・入院3日目
担当医師より改めて病状の説明を受ける。ICUにいたのは一般病棟の空きが無かった為と判明。一般病棟に空きが出来た為、移動。父、しゃっくりが止まらず。医師の説明では脳腫瘍の影響だと。父に病状をぼかしつつ脳を手術する事になると打ち明けるが断固拒否。家族の心配をよそに看護士とは馴れ馴れしく喋っている。

・入院4日目
父が隣人からしゃっくりがうるさいの苦情。かかりつけの病院へ転院したいと言い出す。搬送後初めて父のiPhoneを開くとカレンダーにスケジュールがびっしり。連絡が必要な相手へ直ちに連絡。搬送時の様子はあまり覚えていないようだ。

・入院5日目
母からメール。父が一人で立ち上がってトイレへ行こうとしてしりもちをついたため、ナースステーションの目が届きやすい部屋に変わったと。

・入院6日目
父とは別の部屋で担当主治医より膠芽腫について詳しく説明を受ける。このまま放置すれば対数式に急激に悪化し余命1ヶ月。しかし切り取れば余命を1~2年に延ばせる。ただし完全に切り取る事はできない。腫瘍ができたのが脳だから。脳を完全に切り取ってしまうと父が父でなくなってしまう。本人に痛みの自覚は無し。副作用として、術後片方の手が不自由になる可能性ある。1~2年かけて徐々に悪化していく。30年間、医学的に大きな進歩は無し。腫瘍には脳そのものがなるパターンと別のものがなるパターンの2種類あり。体の他の部位から転移した訳では無さそう。
説明終了後、父の元へ。脳腫瘍じゃないのか?と疑い始める。今すぐ調べてくれ。24時間そばにいてくれと言い出す。父へは脳腫瘍を否定し、頭の中にできものができて切除しないと危険と説明。 父は手術望まず。 イラつきは日に日に激しくなっているようだ。

・入院7日目
父へ告知すべきか連日家族会議をするが未だ結論は出ず。友人Aへ相談。Aは以前父親を癌で亡くしており、発覚から亡くなるまで家族はどう接していたかについて尋ねたのだ。友人Aからは「病状を父に正直に告知すべき。親戚を頼れ。母のケアをしっかり。母のイラつきはおそらくこれから何年も夫婦で過ごす老後が絶たれた事によるものだろう」と。友人Aと別れ病院に着くと実家から叔父が上京してかけつけ説得中だった。しかし家族親戚全員手術を受ける事を願っていても父は「俺は許可しない」「顔切られるのは嫌だ」と態度は変えず。父から少し離れた場所で母と二人になり、友人Aと話した事、父に告げた方が良い事を伝え、母も考えを改める方向に。父の元へ戻り色々やり取りをした後、最終的には、父が「腫瘍?」と尋ねてきた時に否定せずに頷いた。その瞬間、父も薄々気付いていた事が頭の中で繋がったのだろう。その後の父の言動が変わったのは一目瞭然だった。遺言的な事を話し始めた。今までの手術拒否発言は一切無くなった。叔父が帰る時、父は精一杯の大声で叫んでた。 夜になり、母に電話して父の状態確認。脳腫瘍だと分かった後は明らかに態度が変わり穏やかになった。新聞を読んだり、車椅子でトイレに行ったり、iPhoneで知り合いへゴルフのキャンセル電話を自らしていた。また、なんでなっちまったのかと。
もっと早く言うべきだった。友人Aには感謝してもしきれない。

・入院8日目
主治医に父へ病状を打ち明けた事を伝え、父も主治医より直接説明を受ける。父、あと2〜3年は生きたいと。それにしても手術受けさせるまでにこんなに苦労するとは…。

・入院9日目(手術当日)
朝、手術前に父と面会。手術前に父と握手して手術室へ。家族は待機。約4時間後、看護師より手術終了したとの報告。予定では8時間と聞いていたが早い。最悪の事態が頭をよぎり、祈りながらICUへ。主治医より説明を聞く。父との面会前に一旦外へ。
「すぐに葬式にしなくて良くなったんだ…」
こんな言葉こんな時しか出てこないだろう。遠くて近い将来、父とお別れする日はやってくる。それまで準備する時間ができたのだ。20分後。父と面会。目は開いており、呼びかけると反応する。「もっと生きられるんだよ」と父に話しかける。父は弱々しくも言葉も発していた。

・術後1日目
午後、ICUにて父と面会。昨日とは別の場所。父、まだ水しか飲めないなのにスポーツドリンクを要求。昨夜は眠れなかった模様。一旦別れかけたところで看護士からスポーツドリンク飲んでも良いとの許可が。幸い、自販機にスポーツドリンクがあったので届けた。父より「ありがとう」との言葉を確認し本日の面会終了。

・術後2日目
午後、ICUから一般病棟へ移ったとの報を受け、父愛読のスポーツ新聞を購入して病院へ。父はいきなり「俺殺される。」と言い出した。父の記憶はかなり混乱しているようだ。また、担当医と自分の声が似ているらしく、自分を見ない限り担当医と認識。息子に対してですます調で話したり。たまにまともな言動も。「俺が倒れるのは心臓とばかり思っていた。脳腫瘍については全く勉強していなかった。」 夕食は両手で食べた。左手の握力もある。この先、父の状態がどうなるかは分からない。この状態がこの先も続くのだろうか?

・術後3日目
見舞いに行けなかったので母に電話。食事はお箸で食べたとの事。昨日の様子が嘘のように、今日は驚異的な回復だったらしい。要経過観察。

・術後6日目
3日ぶりに父に会う。 重要の場所や、何を把握すべきか的確に指示が来る。また、今日は術後初めてトイレで用を足したり、リハビリも開始。最終的に歩行器使って自分で歩いた。入院前は立つことすらできなくなっていたのに。

・術後8日目
父、抜糸。ホッチキス40本のうち20本。残りは明日?リハビリルームから病室までは歩行器で歩いてきた。懸念されていた片手が不自由になる事は無かった。

・術後11日目
主治医より今後の方針について説明。腫瘍は悪性で膠芽腫と完全に断定。正式に余命を父に伝えられた。父は表面上は落ち着いて聞いていたが…。示された治療方法は3種類。治療方法を家族が選択のではなく、今後いつまでにどう生きたいかを示してそれに対して主治医が治療方法を選択する事に。翌日から約2週間、一時帰宅決定。

・術後12日目
父、一時帰宅。家の事に家族の事、さっそく積極的に動く。

一時帰宅中に頻繁に家族会議。家族から助言はしたが、父は結局結論を下すことはできなかった。

・一時帰宅終了日
父は結局どう生きたいか結論下せず。主治医の選んだ治療方法はガンマナイフ照射。正式に退院許可が出て、普通に暮らしてくださいとの事。かくして父の闘病生活は始まった。

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この後、ガンマナイフ照射に間隔空けて2回行った後、抗がん剤投与となったが割愛。
身体には術後の後遺症は見られず。手術直後の様子がいつまでも続いていたらどうしようかと思っていたのが懐かしく。記憶はほぼ正常。話し始めると止まらない癖も見られるようになったが。ただ、倒れてから手術するまでの記憶は抜けており、脳腫瘍だと知らせたのは自分だったが弟が伝えた事に記憶が書き換えられていた。だが、そんな事は些細なことだ。母の話では父は荒れる事が多くなり時に暴言も浴びせられたと聞く。その一方で、家族はいつかやってくるXデーへの準備も少しずつ始めていた。
精密検査は時々行っていたが幸いにも再発や転移は奇跡的に見られなかった。
お盆にはこれが最後と覚悟を決めて飛行機に乗り実家へ帰った。
秋口には金沢へ一泊旅行もした。
年の瀬には家族で忘年会もした。
再発無しの結果報告が続くにつれ、父は完治すると信じ始めた。その反面、死後家族がどうすれば良いかについて口が重くなっていった。そして2015年は終わった。

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2016年
・1月
新年早々、臭い再発。足の痛み。そして年が明けてから最初の精密検査で再発が確定した。
「俺、死期早まったよ」

・2月
ガンマナイフ再照射。無事終了。

・2月
精密検査。腫瘍はさらに大きくなっている。骨に張り付いていて手術不可能。主治医からはむしろ長く持った方だと。

・3月
日に日に衰えていく父。しかしまだ散歩程度の外出はできていた。近所に花見にも行った。

・4/x
朝、抗がん剤を飲むのが辛いと。 どうせ飲んでも長生きできない。と弱音を吐いたらしい。

・4/x
左手軽い麻痺が出始めた。歩き方もゆっくりになっていく。車椅子購入かレンタルか検討を始める。

・4/x(入院当日)
左手左足萎えて動けず。父自らの意志で入院を選択。

・入院翌日
昼食は自力で食べた。主治医より余命長くてもあと10~14日と宣告。父には告げず。

・入院3日目
食事に看護士の介助が必要になる。会話はもう無理だが反応はする。主治医より余命あと1週間と。

・入院4日目
食事は完全に不可になり栄養剤チューブになる。酸素マスクも装着。問いかけに反応はする。母の判断で菩提寺へ戒名依頼。

・入院5日目
菩提寺より戒名の連絡。立派な戒名で母涙ぐむ。母と葬儀屋へ出向いてxデーの打ち合わせ。

・入院6日目
意識はないが頻繁に動く。左目がわずかに開いて涙が出ていた。

・入院7日目
問いかけに反応は完全に無くなった。聞こえているのだろうか。

・入院11日目
問いかけに反応は無いが話しかけは継続。

・入院12日目
問いかけはするが反応はもう完全に無い。父の右の手のひらは冷たくなってきた。正直もう話しかける話題も無くなってきた。この時間は何なのだ。

・入院13日目
主治医より余命長くてもあと2~3日と告げられる。

・入院14日目
深夜、病院より呼吸が弱り始めたとの電話があり病院に急行。全身は白くなりあんなに赤かった耳は白い。そして当直医の立会の元、正式に父の死亡判定がなされた。今までよく頑張ってきたよ。お疲れ様でした。立派に送り出してあげるから。

2015年を振り返って

 激動の2015年がもうすぐ終わろうとしている。自分にとって、2015年は良い意味でも悪い意味でも忘れ得ぬ年になった。いつもはTwitterにて自分の事と世の中の事を織り交ぜて振り返ってはいるのだが、今年は久々にブログ上にて自分の身の周りに起こった出来事に限定した事を書く事とする。その他の事はいつも通りTwitterにて書く事になるだろう。

 この歳にでもなると、いずれはやってくる別れの時を覚悟せねばならないのかもしれない。その時は春先に突然やってきた。分かっていたはずなのに何の準備もできていなかった。告げられたカウントはあまりにも短かった。そのカウントを延ばす事はできても完全に打ち消す事は不可能と言われた。また、延ばす事が出来たとしても代償を背負い余計に辛い時間を過ごす可能性がある事も併せて告げられた。どうすれば良いのか。刻々と時間ばかりが過ぎていく。連日の家族会議。結論は出ているはずなのに最後の山を乗り越えられない。藁をも掴む思いで古くからの友人に無理言って助言を求めた。そして、掴む事が出来たのは藁よりも立派な物だった。助言は山を越える事を決断させた。絶望の一歩寸前まで絵追いつめられた時、救いの手を差し伸べてくれたのは横のつながりだった。

 延ばす事を決断したあとは奇跡の連続だった。その時の先延ばしに成功した。悪影響も出なかった。完全に打ち消す事は不可能だったが、延ばす事は今のところできている。その時に備える為の準備も本格的に始まった。春から夏にかけては精神的に一番苦しかったが秋になるにつれて少しばかり余裕が出てきた。完全に諦めていた事が一つ夏に実現し、秋口にも実現した。そして……

 今年1年を通じて良い出来事と悪い出来事、振り返ってみれば自分に関しては前者の方が多かった気がする。実社会での横のつながりの大切さを実感した1年でもあった。人間、一人では生きていけない事を身をもって知らされた1年でもあった。

 現在、安定はしているが、近い将来、その時は訪れる。カウントダウンが始まってしまった事に変わりはない。来年以降もその時に備えて準備は続く事になる。2016年は良い意味での忘れ得ぬ年になってほしい。

激動の年の最後の日に

さて、正に激動の2011年もとうとう今日で終わり。

2011年最後の日、久々の更新として魔法使いのオッサンは厨二病的文章を投稿しようと思う。

ぶっちゃけ、オレ、あと何年、生きてるのかな?と言う事だ。

ここは国の東。あの場所から離れているとは言え、暖地点は近所にある。数値的には問題なくても、徐々に蝕まれていく感覚。だが、魔法使いであるが故なのか不思議と恐怖は感じない。

短期的にはとりあえずは大丈夫なのだろうけど、中長期的に考えた場合、余命X年宣告されたようなものとしか思えなくなってる。西へ行っても逃れられるとは限らない。いっそ海の外まで逃げてしまおうか?ちょっと考え始めている。

一方で、節電はするけど、3.11以前と変わらず行くつもりなのも事実ではある。積極的な延命行動は望まないし実施しない。特に食生活においては避けません。でも自己犠牲なんて言葉は使いたくない。

そんなこんなで、自分が現在の親の年齢まで生きているとは思えないのである。

あの日から9ヶ月余り、色々な事があったが、自分自身の脳内に固まったのは、政府も多くのマスゴミもこの国を復興させる気は無いという事。復興を「先送り」する気はあるようだが。本当に酷くなる前にこの世を去れる安心感が根底にあるのだろうか。お得意の「先送り」と「たらい回し」、擦り付けをしたい事ばかり感じる。

先日の発表で確信した。「千里の道も一歩から」と言う言葉があるが、実際にはまだ一歩たりとも歩いておらず、準備運動段階のようだ。なのに、その発表は何百歩も歩いたように国民に思わせるようにしていた。

仮に一歩を踏み出せたとしても、たった40年で収束なんて思ってないから。百年後?あるいは数百年後?数千年後?どんなに長期間要したとしても復興できれば復興だ。その日を見る事ができるのは今生きている人ではない。子孫を残したとして孫の孫の孫のそのまた孫。何世代後だろう。子孫を残したらの話。

批判の前にこんな書いているような自分自身をまずなんとかしろと言う事でオチをつけておく。直接的表現はなるべく避けたので、所々電波的表現になっているのは許せ。

2012年は自身にとっての良い意味での激動の年としたい。


参考文献のようなもの
・流血鬼
・気楽に殺ろうよ
・老年期の終り
・定年退食

お墓参り

今年もあの日がやってきた。

1996年9月23日、藤子・F・不二雄こと藤本弘氏死去。あの日から13年。

以前から訪れたいとは思いつつもなかなか機会がなかったのだが、ふとしたきっかけで直前に知り合った藤子ファンの日々のとむさんのお誘いも後押しし、本日、ついにお墓参りに行った次第である。

博士のイチゴな愛情の大正ロマ子さんも合流し藤子F氏のお墓へと向かっていたのだが、なかなか見つからず、ようやくたどり着いた藤本家のお墓、他のお墓と比較して特別に扱われている事もなく、目立たない場所にひっそりとあった。偶然にも数人のドラえもん声優の方々もいらしており、その方々のおかげで見つけることができたのであった。

また、我々が持参していたマッチの火がなかなか付かず、水田わさびさんからライターをお借りする事になった。水田さんを始め声優の皆様、ありがとうございました。本当に助かりました。

線香を供えた後、短い時間ながらも色々な事が蘇り、そして祈った。今年ついにあなたの全集が発売されたのです。初めて参ることができましたが、良い報告をする事ができました。

全集がきっかけとなり、新規の藤子漫画ファンも増えますように。

お墓参りを終えた後は、近場のファミレスにてミニオフ会。とむさんとはすぐに打ち解けた。まだお若いにも関わらず原作漫画の知識はA氏、F氏関係なく広くそして、深いことに驚く。さらに、多趣味。逆にこちらが圧倒されてしまった。一方で自然消滅してしまった藤子不二雄atRANDOMをご存じでない事に時の流れを感じた。とりあえず、Internet Archive を駆使すれば今でも何とか閲覧は可能である事は伝えておいた。

他にも色々な話をした。先日亡くなったあるさんことあるばたいんさんの思い出話もたくさんした。時間はあっという間に経過し、続いて中野のまんだらけへ。恥ずかしながら行ったのは実は初めてw そこでも時間の経過は早く、気づいたら空は暗くなっていた。

もっと話したいことはあったが、翌日の事も考え、お開き。ここ数年は様々な事情が重なり藤子熱は冷める一方であったが、F全集発刊と共に再び灯った灯が一段と明るくなるのを感じた。

ドラえもん誕生日の日に・・・・・・

今日はドラえもんの誕生日。Googleロゴもなんと特別バージョンに。

しかし・・・、よりによってこの日にこんな悲しい事を知ることになるなんて・・・・・・

先ほど、「あるばたいん」さんのお兄様より、連絡を頂きました。 八月三十一日の夜に、お亡くなりになりました。35歳の若さです。 (たかはたゆうさく さんのブログ高畑★SAN 魔美的 偶然日記より)

あるばたいんさんはインターネット黎明期の1996年から藤子アニメサイトを開設されていた。そのサイトはやがて「藤子アニメだいすき!チン★プイ」となり、現在は独自ドメインも取得され藤子アニメだいすき!として存続している他、かつてはたかはたゆうさく さんと共にエスパー魔美DVD化署名運動の先頭にも立っておられた。

我が家にインターネット接続環境が導入されたのは1996年の暮れであったが、その直後に「藤子アニメだいすき!チン★プイ」を見つけ、今まで知らなかった藤子アニメ情報やチンプイの魅力を知ることになった。特にチンプイに関しての情熱度はものすごく、コンテンツの充実度は群を抜いていた。Wikipediaなんて存在しなかったこの時代。このサイトとの出会いが自分が藤子作品との関わり方を変えるきっかけの一つになったと言っても過言ではない。そしてこのサイトをきっかけに他の藤子サイトもよく見るようになり、やがては掲示板の書き込み、オフ会への参加へと繋がっていった。しかし、あるばたいんさんと直接お会いすることになるのはしばらく後のことになる。

2005年夏にドラえもんステージイベントにてあるばたいんさんとニアミスしたものの、当時はオフラインでお会いしたことは無かったため、お互いに気づかず。そして2005年暮れ、冬コミ後のドラちゃんのおへやオフ会にて初めてあるばたいんさんにお会いすることができた。その後は、夏と冬の年2回はオフ会の度に顔を合わせ交流を深めた。ドラえもん同好会のオフ会や、ネオユートピアの上映会にもお誘いして参加した事もあった。また、お互いにSoftBankケータイユーザーということもあり、ケータイ談義でも盛り上がった。

あるばいんさんはブログの更新を頻繁にされていた事から、あるばたいんさんのブログを見るのも楽しみだった。ところが6月以降、ブログの更新が突然ストップしてしまう。藤子・F・不二雄大全集刊行開始の際に久々に更新されたが、刊行開始の喜びと共に、ブログ更新休止宣言もなされていた。

先月、オフ会のお誘いメールを出した際には、「今回は不参加」との返信をいただいていたのだが、その時は帰省の為と伺っていたので、まさかそれが最期のやりとりになるなんて思いもしなかった。

更新休止宣言の後も、ブログタイトルの下に「『藤子・F・不二雄 大全集』ドラえもん(2)エスパー魔美(1)キテレツ大百科(1)発売中!」の文面があることから、本当に、亡くなる直前まで、更新の意欲を見せていたのであろう(※この3冊の発売日は2009/08/25)。今となっては、最後のエントリの書き出し、「小学館『藤子・F・不二雄大全集』がめでたく発売されました!初めて読める話がまだまだこんなにある、なんというか生きる希望が沸いてきす。」が虚しい・・・・・・。

あるばたいんさんはドラえもんの誕生日には必ずブログを更新されていた。

・2004年
ドラえもん誕生日おめでとう!

・2005年
ドラえもん誕生日おめでとう!(05年版)

・2006年
ドラえもん誕生日おめでとう!’06

・2007年
ドラえもん誕生日おめでとう!’07

・2008年
ドラえもん誕生日おめでとう!'08

でも、今年は、いやもう二度とドラえもんの誕生日にあるばたいんさんのブログが更新される事は無い。そのことに気づいてから、何とも言いようのない悲しみと寂しさがわいてきている・・・。あるばたいんさんのブログもいずれは見られなくなってしまうのだろう・・・。

第一報を聴いた直後は何が何だか分からなかったのだが、少しずつ、あるばたいんさんが残した物の大きさについて認識し始めている。

さようなら、あるばたいんさん。どうか天国でごゆっくりお休みください・・・。

C76 3日目

さて、夏コミである。

今回も最終日だけの参加となった。前回の反省を踏まえ、ビッグサイト到着時刻はさらに早まり7時着となった。入場できたのは10:15頃である。

前々回から個人的な事情により事前にチェックしたサークル以外は極力購入を控える方針にしており、今回はほぼ全てが東のしかも123に集中していた為、東123へ一直線に向かった。

東館到着後は壁寄りを目指し、途中の島も極力回収しながら向かう。最終目的地は大手ではなく、NHKザ☆ネットスター!のプロデューサー・アンディのサークル「ムゲンノホシゾラ」。直前情報で島から外へ移動する事を知ってはいたが、どこへ移動したのかは元の場所に到着してようやく判明。移動先が地図が描かれており、やはり野外であった。そこへ向かう途中、モモーイのサークルの列が前回とは打って変わって短めだったため、前回買えなかった本と新刊を購入。事前告知でモモーイが不在だった事も関係しているのだろうか。そして野外へ出るが、大手サークルの長蛇の列があちらこちらにできており、どこがムゲンノホシゾラの列なのかよくわからない。待機列をいくつか横切った一番奥にテントが一つ横向きに設置されており、テントに「ムゲンノホシゾラ」と書かれていたが、あまり目立っていなかった。テントの前には十数名の人と、そして中になんと柚木涼香御本人もいらしてた。どこか別の場所に待機列があるのではないかと最後尾を探してみたが、そもそも列自体見当たらず。テントのすぐ横には大手壁サークルの超長蛇の列ができていたのだが、並んでいる方々は目もくれず、むしろ気づいていないようであった。結局、「ねとあね☆夏しぼり」と「コミケで何か売るものをつくってみたよラジオ」をあっさり買えたばかりか、柚姉から名前入りでサインまでいただいてしまった。なんだこの展開は。

高まる気持ちを切り替え、前回買えなかった大手に並ぶが今回は在庫が多めだったようで、余裕で購入。そんなこんなで本日は優先順位高めの本の購入に全て成功してしまった。優先順位低めのサークルが西にあったのだが、西へ向かった時間が14時近かった為か、目的のサークルに向かうと既に撤収した後であった。まあ、これは仕方がない。さらに企業ブースへ向かおうとしたが、予想以上に時間がかかった。「メーカー横断アニメガイドVol.2」は欲しかったのだが、どこにも見当たらず。体力も尽きてきたので15時半には撤退した。使った金額は諭吉未満。

本日は天候に恵まれ今年の夏にしては気温も高めで日差しも強かった。事前に水分を1.5リットル準備して日焼け対策であえて長袖で出撃したのだが、水は途中で足りなくなり、長袖で腕の日焼けは防げたものの、手の甲と顔が日焼けでヒリヒリしている。水は途中で買い足したが、睡眠時間2時間弱で出撃した影響もあったのか西へ向かい始めたあたりからやや酸欠状態になっていた。今から振り返ると、かなり危険な状態だったと思う。帰宅途中に食事をして回復はしたが、来年の夏コミはよりいっそう対策を考える必要があるだろう。

また、今回はSoftBankケータイが全くと言っていいほど使えなかった。電話をかけようにもメールを出そうにもウェブを利用しようにも「混雑しています」の状態が出て使用できない。メールを1回送信するのに数十回リトライするような状態であった。リアルタイムに連絡が取れないし、情報も仕入れられない。3Gへの移行が進んだ為なのか、iPhoneがトラフィックを食っているのか、そもそもインフラが脆弱なのが露呈してしまったのか。まるで2Gの頃に戻ったようだ。前回の冬コミまでは今回のような事はなかった。次回以降、回線増強を行ってくれればよいのだが、あまり期待はできない。一応、エリア改善ご要望フォームから要望を出しておいたけど。

なお、大満足の状態で心がゆるんでいたのか、夕食をとった店にて本日の収穫物が入った袋を置き忘れ、会計後に店員に呼び止められて事なきを得る場面があった。店員さん本当にありがとうございました。(2009.8.18記)

藤子オフ会2009夏

今年の夏も恒例のオフ会を"開催"した。いつもはドラちゃんのおへや&はなバルーンblogのオフ会という形で行われているのであるが、今回は都合により私が幹事を務めることになったのである。

二次会のカラオケの場所は最初から決まっていたようなもので苦労はなかった。だが、一次会の場所は、飲み放題ありかつできれば個室、それでいて予算を低めにという事で事前に何店か絞り込んだものの、動き始めたのが直前だった為、予約は無しでも大丈夫と判断したのであった。

さて、今回は私を含め総勢7名での開催となった。初参加の方もおり、しかもわざわざ遠方から来られたとの事で本当に嬉しい限りである。一次会のお店も決まり、そのお店に向かったものの、なかなかたどり着けないアクシデント発生。なんとか発見はできたが、参加者の方々には無駄な時間と労力を割く羽目になってしまった。原因は単なる事前の調査不足であり、今後の課題としたい。

一次会での話題はやはり藤子・F・不二雄大全集である。意外だったのは購入率で、未購入の理由としては予算上の問題が無いわけではないが、それよりも置き場所の問題を挙げる方が複数名おられた。これは購入済組にも共通する話題である。私も全集発売を前に、もう見ないであろうVHSテープを100本以上処分に踏み切っている。また、全巻購入予約者特典の〆切が今年の12月である事も影響しているようだ。購入済組からは概ね満足との声は共通していたのだが、やはり、パーマンにおける台詞の不満は聞かれた。一人の方が改訂前のてんコミ版パーマンを持参しており、見せていただいたのだが、改訂前の台詞は前後の文脈の流れから自然なケースが多かった。全集の巻末にせっかくおことわりを載せておきながら、本編は改訂後のまま出されてしまったのは何とも残念である。とはいえ、最近のオフ会は藤子話に関しては明るい話題が少なかっただけに、久々に明るい話題であった事は間違いがない。

二次会のカラオケはいつものように超マニアックな選曲が続くのかと思いきや、2曲目に「夢冒険」が入れられ参加者全員大爆笑であった。さすがにカラオケは配信停止にはならないか。「夢冒険」に触発され、勢いで「アクティブ・ハート」を入れてしまった。そんなこんなで2時間を予定していたカラオケは計3時間に延長してもあっという間に終わった。

参加者の皆様、お疲れ様でした。そしてありがとうございました。(2009.8.18記)

130円大回り

ある日、午前中と夜に用事が入り、午後に空き時間ができてしまった。予てから一度は決行したいと考えていた130円大回りの旅を行うことにした。空き時間が約6時間という事で、そこから逆算してルートを考案した。

東京→(山手線)→上野→(高崎線)→倉賀野→(八高線)→高麗川→(八高線)→拝島→(青梅線・中央快速線)→御茶ノ水

山手線 東京→上野 E231系
まずは東京駅からスタート。130円切符を購入して山手線に乗り、上野駅へ向かった。

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高崎線 上野→倉賀野 211系
高崎線はE231系より211系の方が多いようだ。せめてボックスシートの1000番台に乗りたかったが10両編成だった為、必然的に3000番台に乗る事に。2時間近くロングシートに乗る事になるが仕方がない。シートモケットは青系統に交換済だった。

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八高線 倉賀野→高麗川 キハ110
水戸線ルートと迷ったが非電化区間はぜひ入れたいと思っていた。ルート選定にあたっては八高線非電化区間の存在が大きかった。本数少ないからね。キハ110系は以前アベトンボと陸羽東線に乗って以来の乗車である。首都圏のローカル線ではあるが、乗客は多く3両編成なのも頷ける。車掌も乗っていた。

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八高線 高麗川→拝島 209系
川越線川越以西と八高線電化区間は様々な車両が走っているが、やってきたのは元りんかい線でJR東日本に移籍した209系3100番台。発車すると非電化区間とは段違いの速度を出す。当初は高麗川から川越を経由し埼京線で新宿へ向かうルートを考えていた。しかし、このルートでは一度通った大宮と赤羽を再度通ることになってしまい、大回り乗車が成立しない。再考した結果、八高線で八王子まで行き中央線に乗り換えるか、拝島で青梅線に乗り換え立川経由の中央線の2ルートが考えられたが、時間の関係上、後者の拝島乗り換えを選択した。

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青梅線・中央快速線 拝島→御茶ノ水
拝島駅は五日市線に加え西武拝島線も集まる大ターミナル。五日市線の電車もE233系であるが八高線と同じく1年を通じて半自動ドアとなっている。当駅から米軍横田基地へ延びる専用線も延びている関係なのか構内ではDE10も見かけた。いよいよ大回り乗車ラスト。運良く青梅特快がやってきた。近年高架化された区間を見てみたかったのだが、かなり疲れていたので寝てしまい確認できず。

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御茶ノ水では予想通り自動改札機が閉まった。2時間以上経過しているからであろう。有人改札で大回り乗車の趣旨を説明。駅員はあまり関わりたくなさそうに切符を受け取ったので説明する手間は省けたが、なんか後味悪い。とにかく疲れた。

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あの日から1日が経って

14日21:15からNHK総合で放送された「ドキュメントにっぽんの現場 寝台特急ラストラン~人生を運び続けた半世紀~」を家族で鑑賞する。父も母も学生時代に三段寝台は経験済でそれは狭かったとの事。母が大学時代に教授の付き添いで乗った寝台車は中央通路で寝台が線路方向にあったらしい。おそらくA寝台であろう。20系なのか10系なのかは分からないけど。番組を見て感極まった母は「こういう列車は残してほしかった」と感想を述べるも、「じゃあ結婚してから一度でも帰省にブルートレインを使ったか?もっと使っていれば無くならなかったんだ」とツっこんでしまった。前に書いたように、我が家の人間が帰省する際の手段は一に航空機、二に新幹線。夜行列車は選択肢にすらなっていなかった。二段寝台の24系25形が登場したのは1974年。その時点で、ブルートレインの先行きは見えていたのかもしれない。

それは置いておくとして、20系の狭い三段寝台に一度は乗ってみたかった。少なくとも1994年頃までは20系は臨時急行玄海として首都圏から博多まで走っていたのだ。乗車のチャンスは残されていた。積極的に乗り鉄をするようになったのはここ最近の事で、その頃には20系は既に無かった。

三段寝台自体は電車急行ではあるが大阪-新潟間の急行きたぐにでまだ乗れるし、JR東日本も臨時列車用に583系をまだ残している。乗車難易度でいうと、圧倒的に前者が低いが、ちょっと厳しい。

東京からブルートレインは消えたが、夜行寝台電車はまだ残っている。サンライズ瀬戸・出雲も先行きは決して明るいものではないので、できるだけ早い内に乗っておこうと思ったのであった。

番組自体の出来は非常に素晴らしく、最終上り列車のさよなら放送をオンエアしてくれたのは涙腺がゆるんだ。番組中で洗面所が故障して水が止まらなく場面があったが、あの洗面所は原型タイプであったのが目についた。製造後30年が経過し、更新工事も行われていない車体の老朽化が深刻であることを伺わせた。


ところで、富士・はやぶさ廃止報道を見てみると、「一斉にフラッシュがたかれ」という表現が目に付いた。最終列車出発直前の東京駅で係員が繰り返し注意喚起をしていたように、列車に向けてフラッシュを焚くのはマナー違反であるのは、鉄道ファンの間では常識となっていると思う。運転士の目くらましになってしまうからである。しかし、一般人の間ではその意識は残念ながら低いと言わざるを得ない。だからこそ、マスコミが先頭になって注意喚起をすべきであるはずなのだが、言葉狩りには厳しいくせに、そういう所は甘いのは腑に落ちない。

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