フォト
無料ブログはココログ

最近のトラックバック

« 祝・ありがとう!阪神優勝! | トップページ | さようならJ-PHONE、こんにちはVodafone。 »

さようなら史上最高の新幹線

昨日をもって東海道新幹線から2階建新幹線100系が消えた。10月のダイヤ改正でのぞみだけでなくひかり・こだまも含めて最高速度が270km/hに揃えられ最高速度220km/hしか出せない100系ではダイヤを構成できないためだ。

思えば1985年の100系試作車デビューは衝撃的だった。奇しくも前回の阪神優勝と同じ年である。それまで新幹線といったら0系のあの顔だったから。東北上越新幹線の200系も色が違うだけで基本的には同じ顔だった。そこへさっそうと登場した細長い顔の新型新幹線。なんといっても格好よかった。今は亡きケイブンシャの鉄道メカ完全大百科には「おもちゃが出たら凶器になりそうやねーこの先頭車は」とか書かれていたのが思い出される。しかも2階建車両も連結している。当時、2階建車両なんて近鉄のビスタカー以外になかったから。

一通りの試験終了後、1985年秋から1日1往復ひかりとして営業試用開始。そして翌1986年には量産が開始。1986年11月から博多直通のひかりとして本格的にデビュー。初めて乗ったのは1987年3月。国鉄がJRに変わる2日前だったと思う。編成番号は量産第1編成であるX2であった。乗車区間は新大阪から博多までであった。デッキに通じるドアの上に表示される情報表示が当時としては画期的であった。まだニュースサービスは開始されておらず、表示されるのは「次は○○」という駅名表示、「現在の速度は220km/hです」という速度表示だけではあったが、それでも物珍しかった。通勤電車のドアの上には全て表示されるのは考えられない話であった。そしてシートピッチ1040mmという座り心地のいい座席。増備車からはグリーン車でないにもかかわらずフットレストもつけられた。後継車両である300系、500系、700系いずれにもフットレストが省略された事を考えると、100系こそは接客設備が最高だったと断言できる。福岡の実家帰省中に国鉄はJRへと変わった。博多から新大阪へも100系に乗車。そして食堂車で食事した。その次に100系に乗ったのは1989年の夏、父の仕事の都合で東京へ戻る時になった際に新大阪から東京までグリーン車を利用した。ただし平屋の116型ではあったが。時代はバブル全盛期。昼食はカフェテリアで買ったお弁当であった。

1990年春に300系試作車登場。今までの新幹線とは全く違った外観が衝撃的ではあったが、100系登場時ほどのインパクトは感じられなかった。2階建車両もなかったし。その後、中3の修学旅行で往復とも利用した。この頃、既に東京ー博多の速達列車はのぞみになっていたが、主力はまだ100系であった。

1995年夏、帰省時の往路にはのぞみの指定席が取れず、グランドひかりのV編成を利用した。博多までの所要時間はのぞみより1時間以上も余計にかかった。この時、夕食を食堂車で食べる事ができた。名古屋を出発したあたりから食べ始めて食べ終わる頃には京都に着いていた。あの時2階から見た夕日を一生忘れはしないだろう。指定席ではあったが、新大阪を過ぎると自由席に乗り切れなかった客が指定席の通路にも溢れていた。これが自分にとっての最後の100系ひかり乗車になるとは思ってもいなかった。

試作車誕生からわずか18年。食堂車連結のX編成、V編成は既に無く、本日さよなら列車として運行されたG49編成が落成したのは1991年。最終増備は1991年であったのだ。まだ車齢は12年である。高速走行と走行距離により車体寿命が短いとされる新幹線であるが、12年は短すぎる。300系試作車より新しいにもかかわらず100系は東海道を去る事になった。山陽ではこだま用として当分は残るが、2階建もなく車体の色も変わり、座席は横4列に取り替えられてしまった。300系、500系、700系のいずれも性能は素晴らしいが接客設備は100系より劣ると思う。700系にいたっては売店すらなくなってしまった。座席も100系の方がよかった。100系こそは史上最高の新幹線、この思いは一生変わる事はないだろう。

« 祝・ありがとう!阪神優勝! | トップページ | さようならJ-PHONE、こんにちはVodafone。 »

ニュース」カテゴリの記事

鉄道」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: さようなら史上最高の新幹線:

« 祝・ありがとう!阪神優勝! | トップページ | さようならJ-PHONE、こんにちはVodafone。 »